文 禄 慶長 の 役。 講和交渉

文禄

しかし秀吉は小田原征伐とのために9月1日まで不在で、凱旋後もしばらく放置された。 只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。 休戦と交渉を挟んで、を舞台に戦われたこの国際戦争は、における世界最大規模の戦争であった。

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文禄・慶長の役|国史大辞典|吉川弘文館

その夜、開城では多数の百姓が集まってきて痛哭したり涙を流して朝鮮国王を非難して騒ぎになった。 4月28日、尚州の戦いで捕虜となり解放された倭学通事(通訳)が、小西行長の手紙と国書を持って京城に達した。

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ついで同十七年、秀吉の強硬な命令により、宗義智 (よしとし)みずからが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多の豪商島井宗室らとともに朝鮮に渡海し、秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を重ねて要請した。 城内にそのまま残されていた大量の酒と食事に兵士達は群がり、貪り食って休息した。 常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名に号令を発して、10万石に付き大船2艘を準備するように命じ、港町は家百軒につき10人の水主(かこ)を出すこと、自分の(筑前・摂津・河内・和泉に集中)には10万石に付き大船3艘、中船5艘を造ること、建設費は半額を奉行より支出し、残額は竣工の上で交付するとした。

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ただし韓国では「イムジンウェラン(壬辰倭乱)」が未だに一般的な呼称で、書籍や新聞、テレビ等で広く用いられている。 () 朝鮮半島経由の理由 [ ] 秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも「 地乗り航法(沿岸航法)」であったことが説明として挙げられる。 当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備え付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦(倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台)を築いて大筒やを備えて、水陸併進して活動するようになった。

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文禄の役とは? 慶長の役とは? 朝鮮への出兵したのはなぜ?

咸鏡道では、以前から、中央から派遣された官僚と地元民(朝鮮人+女真族)との間がうまくいっておらず、しばしば争いが起こっていた。 せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)

城は四方が絶壁に囲まれ前方に道が一本あるのみという難攻の地であった。 しかし、が義兵を集め、延安城で軍民2,500人で籠城を始めた。 輝元は身内のに宛てた5月26日付星州からの手紙ではさらに具体的に書いていて、朝鮮は弱いが土地が広く言葉も通じず統治するには困難だと指摘し、意思の疎通に一々通訳がいる煩わしさは格別であるとした。

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文禄・慶長の役とは

早速、二番隊は陸路と海路で梁山と蔚山に向かい、三番隊はそのまま廻航しての河口の竹島(竹林洞)に着いた。

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文禄の役とは? 慶長の役とは? 朝鮮への出兵したのはなぜ?

論証も十分ではないという批判 もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。

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